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『だから仏教は面白い』

魚川祐司

 

今さら仏教を学ぼうシリーズ。
もともとは音声動画の形で配信された講義がもとなので読みやすいですが、私にとってはディープで刺激的な話ばかりです。

魚川さん(ニー仏)さんは1979年生まれ。
仏教の研究をされている方ですが、ご自分は「私はそもそも、いわゆる「仏教徒」ではありませんから」とおっしゃいます。

目次

仏教はヤバいもの

仏教の説明に先立って、何よりもまず、仏教はヤバいものだと言わなくてはいけない、といいます。

つまり、「仏教をやると優しくて健全な人になれます」とか、そういうごまかしを言うのではなくて、「少なくとも、ゴータマ・ブッダの仏教は、その究極的な目的を達成しようとする弟子たちに、『異性とは目も合わせないニートになれ!』と命じるものである」ということを、まずはっきり認めるべきじゃないかということです 。

仏教はいわゆる人間らしさに背を向けろと迫る、過激なものなのです。
それを明確にした上で、仏教についての説明に入ります。

仏教の原則的な目標は、その有為の条件付けられた状態から、無為の条件付けられていない状態、即ち涅槃へと至ることです。

「有為」というのはいわばこの世界の法則です。「こうすればこうなる」という因果関係に条件付けられた考え方で、「無為」は逆に条件付けられていない状態です。
有為の中では不満足を満足させようとし続けるプロセスが延々と続きます。
それを終わらせるために「世界」の外に出てしまうということが仏教の目標なのです。

なぜ、仏教がそのような切実な目標を持たなければならなかったのか。
そこには日本人がわからない、あるいは誤解しやすい輪廻転生の問題があるといいます。

輪廻

そして、これは日本人にはどうしても感覚的にわかりにくいことなのですが、インド文化圏の人たちにとって、輪廻転生というのは物語とかネタではなくて「事実」です。つまり、私たち日本人が、自分が将来的に死ぬであろうことを経験はしていないが「事実」であると考えているのと同様に、インド文化圏の人たちは、自分がこれまで輪廻転生を繰り返してきて、そしてこれからも同様に繰り返すであろうことを「事実」であると考えている。

しかも輪廻転生のタイムスケールは日本人が考えているよりもはるかに大きいのです。

輪廻転生のプロセスの中にある衆生は死ぬことを何度も何度も繰り返す。そして、その生と死の間の時間は、すべて終わりのない不満足として、無益に消費され続けるわけです。そんなことはもううんざりだから、そうしたプロセスからは抜け出したい。これがインド人が解脱を求めた理由です。

私がいままで持っていた輪廻のイメージは、魂がいろんな器(人だとか動物だとか)に乗り移る、というものでしたが、そうではなくて、現象がよって変化し続けることだといいます。
このあたりは、かなり面白い。

「輪廻」と言いますと、先ほどもふれましたが、何か「魂」のようなものがあって、そのような実体的な「私」が、例えば犬になったり、猫になったり、人間になったり、あるいは天人になったりという感じで、次々と生まれ変わり死に変わりしていく。つまり、「器」を変えながら「魂」がどんどん場所を移っていくというのが、日本人の多くがイメージしている輪廻ですね。ウ・ジョーティカ師がここで言っているのは、輪廻(サンサーラ)というのはそのような「物語」のことではない、ということです。そうではなくて、サンサーラというのは、精神的と物質的の現象がひたすら先行する条件、あるいは業によってずっと継起を続けていくということ。ナーマとルーパが縁起の法則の下に生成しては消滅し、生成しては消滅するというそのプロセスが、ずっと続いていくということ。

ところで、魚川さんは、仏教も宗教である以上、非科学的なことが含まれているのは当たり前というスタンスをとります。
輪廻の考え方は非科学的であっても合理的であり、仏教の考え方の基本にあることを見失ってはならないといいます。
こういう割り切りは信頼できるものだと思います。

金パン教徒と大乗経典同人誌論

動画配信されていただけに、いろいろおもしろい言い回しも出てきます。
たとえば「金パン教徒」。
つまり「金銭と性愛を人生の基本的な動機と目標であると考える人」には仏教は届かないけれど、逆にそういう人たちがいないと社会は成り立たないといいます。

大切なのはこれまで述べてきたような仏教の思想が、あなた自身にとって価値があるかどうかです。金とパンツ、金銭と性愛だけに価値を見出して、そうした欲望の対象を追いかけ続けることだけが人生の内容であると考えるのか。それとも、人生にはそれ以外のモード、即ち、欲望の対象が得られるか得られないかということには全く関わりなく、「ただ在るだけでfulfilled」というエートスが必要であると考えるのか。

私自身を考えると、おおよそ金パン教徒なんだけど、今のままじゃちょっとまずいんじゃないか、と思い始めてるのでこの本を読んでたりします。
魚川さんは、仏教を信仰しなくても、仏教という別のモードを自分の中にビルトインしてみたいのであれば、ちょっと考えてもいいかもしれない、といいます。
もう少し、仏教のみならず宗教のことを考えてみようかなあ。

「大乗経典同人誌論」では『エヴァンゲリオン』の二次創作の例をとって、大乗経典が同人誌と同じなんだと説明します。
そもそも初期仏教の経典には、修行者本人のみが解脱する方法が書かれていたのであって、大乗的に、衆生を救おうという記述はなかった、といいます。
そこで大乗仏教を信奉する人はどうしたかというと、初期仏教の世界観(道具立て)をつかって自分で作りたいと思うものを描いてしまったのだそうです。
まさに二次創作。
ただ、だから大乗がだめだと決めつけているわけではありません。

私自身は、「本当の仏教」とか「正しい仏教」とか、その系統の話には関心が全くないので、大乗経典が「二次創作」であるからといって、それに価値がないとは思いませんけどね。

むしろ「広く人々に受容された大乗経典に思想的価値があるというのは、ある意味では当然のことです」といいます。
日本で受容されている大乗仏教ですが、そういう経緯があったということを知るだけでも面白いですね。

物語

解脱する前の人間は「苦」を経験しているのですが、それは「物語の世界」に生きているからだ、といいます。

それは、如実(ありのまま)の現象そのままの認知からは少し距離のある、言わば「物語」の認知であり、私たちはそのような「物語」のイメージを織り合わせた「世界」の中で生きていて、そこで「苦」を経験しているわけです。

私たちが目や耳で感じること、頭のなかで考えることは、現象ありのままではなく、欲望によって形成された「物語」に加工されている、と仏教は考えます。
だから私たちは欲望を追い続ける「苦」の中にいる。

ここからわかることは何かと言えば、私たちが基本的には、「物語の世界」の中に生きているということです。「物語」というのは、言い換えれば「欲望によって形成されたイメージ」です。

このあたりはたとえば「現象学」とか竹田青嗣さんの欲望論と関係してくるような話です。
面白い。

実践

魚川さんは仏教においては理論だけではなく、実践が重要なのだということを繰り返します。

仏教というのは、しばしば言われているように「行学」、つまり実践(行)と理論(学)の両側面から体系化されているものです。ゴータマ・ブッダの仏教が衆生の認知の領域を問題としており、その転換が彼の仏教の究極的な目標であるところの解脱・涅槃であるということは、そのように仏教が理論だけではなくて実践も重視することと、深く関わっているんです。

瞑想することで「集中力が上がってくると、ものがゆっくり知覚されるようになる、ということが起こります。自分自身の身体の動きが、細かく分節されて感じられたり、あるいは音楽が「解体」されて、連続したメロディーとして聴こえなくなったりする」そうです。
スポーツ選手がゾーンに入るみたいに。
先に書いたように私は集中力がないので、少し憧れ、興味もわきます。

いくら集中力はいらない、と言われても。

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