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『悟らなくったって、いいじゃないか 普通の人のための仏教・瞑想入門』

プラユキ・ナラテボー、魚川祐司 幻冬舎新書

 

『仏教思想のゼロポイント』を踏まえての対談です。

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プラユキ・ナラテボーさんは埼玉県生まれで、現在タイ・スカトー寺の副住職。
上智大学を出られて大学院に進まれたあと、タイで出家された方です。

本書では基本的に魚川さんが問題提起をし、プラユキ先生がそれに答えていくというスタイルで進みます。
魚川さんが終始問題としているのは、仏教には「正しい仏教」というのは存在しない、ということです。

魚川 私がここで申し上げたいのは、「正しくて完璧な瞑想のメソッドが一つだけあって、それは『全て』に対応可能なパーフェクトなものであり、そうでなかったならば、それは『間違った』瞑想法なのだ」といった考え方をしてはならない、というか、瞑想に関するそういう捉え方は不毛だということですね。

瞑想の方法にも、いわば「ゆるい瞑想」から、集中しているのでいくら蚊に刺されても気にならなくなる「ハードコアな瞑想」まで、いろいろな種類があるのだそうです。
どれが正しいとか間違っているとかではなくて、どれが自分にあっているか、どれが自分の目指している効果を出してくれるか、ということがわかるマップがあるとよい、といいます。
しかし現状では、ミスマッチの瞑想を強いられて、逆に精神的に追い詰められていく「瞑想難民」が生まれているとのことです。

さて、プラユキ先生はどちらかといえば「ゆるい」瞑想、というか、衆生の生き方に寄ったやりかたで仏教をされています。

プラユキ 私としては、普通に仕事や学業をされている日本の在家の方が、「渇愛を滅尽して解脱する」といったところまで、ハードコアなテーラワーダの境地を突き詰める必要もないと思っています。悟りとか涅槃とかそういうことを全く話題にしなくても、気づきと智慧が身についていけば、悩み苦しむことはどんどん減っていきます。私自身そのための実践を教えているわけです。

とはいえ、アメリカで流行している「マインドフルネス」の運動には、少し心配もされています。

プラユキ(略)「マインドフルネス」の実践においては、仏教の「宗教的」な要素とされるものは、ほとんど排除されてしまっている。
それはそれで、人々の抜苦与楽の役に立つのであれば、もちろん悪いものではありません。ただ、私としては、そのように仏教の要素の一部だけを取り出して、それを人々が「利用」することに対する懸念というか、そのことの危険性も考えないわけではない。仏教というのは、戒・定・慧や仏・法・僧といった、全ての要素が一つになって機能する、有機的なシステムですから。

仏教の根幹である「智慧」は、仏教全体を知っていれば悪とはつながらないのは明白だが、一部だけを取り出した場合には悪用される危険性があるといいます。
たとえば「洗脳」のようなことでしょうか。

プラユキ先生はいわば「仏教カウンセリング」をされているのですが、その際相談者の夢を積極的に聴く手法をとられている、というのがとても印象深い。
きっかけは、自分の夢を自分で分析したことだそうです。

プラユキ (略)瞑想と同時進行で分析をしていくことで、通常の意識から夢の意識への移行のプロセスや、その境界線上で起こる様々な心理学的な事象についても認識が深まりました。夢の意識が生じてくるプロセスを理解することが、あらゆる神秘体験や病理現象を理解するための、大きなヒントになったんです。

夢、神秘体験、宗教。
ユングっぽいです。
そしてここのところ読んでいる「霊性」的な話に近いです。

現代における仏教や瞑想の問題点を知るにはよい本でした。

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