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『イスラム教の論理』

飯山陽 新潮新書

昨年、ボコ・ハラムがナイジェリアの女子生徒200人以上を拉致したという事件があり、日本でも報道されました。

今年に入って、あるニュース番組が事件の続報を伝えていました。

ニュースの終わりに、キャスターは「ボコ・ハラムがなぜこのようなことをするのか、私たちにはまったく理解できません」と締めくくりました。

そのまとめかたは違うんじゃないか?と私は思いました。

もちろん、許すことができない事件です。

しかし、ボコ・ハラムの考え方に賛同はしなくても、どうしてそういう行動に及ぶのか、その論理はわかるのではないか?

私たちの考えとこれほど隔たってしまっている理由を伝えるべきではないのか。

この本は、イスラム教の原理、論理をさまざまなエピソードから明らかにし、西欧的で普遍的(と私たちが信じている)考え方との相違点を明確にしてくれます。

「イスラム国」に代表されるような「イスラム過激派」と「穏健派」のあいだには、実は考え方に違いがあるわけではない、と飯山さんはいいます。

しかし、コーランで命じられているのだから喜捨もジハードもヒジュラも全部やるという「イスラム国」のあり方のほうが、イスラム教の論理ではより強力で正統なのです。

イスラム教に内在する論理で考えていくならば、ジハードは行うべきだし、イスラム教が世界を統一するべきだという考え方になるのが当然だといいます。

イスラム教の論理とは、コーランなどのテキストを重視することから生み出されます。

穏健派と呼ばれる人たちは「国家」の安定を重視しているだけであって、テキストに沿って考えていけば、「イスラム国」のような思想になることはおかしいことではないし、むしろ正しいとさえいえるのです。

イスラム教はテキストを根拠とした思想体系なので、インターネットとの相性は基本的に非常にいいのだ、といいます。

インターネットで簡単に検索することができるようになって、いままでイスラム法学者が独占していた知識を一般のイスラム教徒が簡単に手に入れられるようになりました。

国家の安定を重視する穏健派の理論が大手を振っていたのですが、コーランやハディースに基づく「正しい」イスラム教が存在することに一般のキリスト教徒が気づき始めたのです。

これが「イスラム国」などの支持につながっています。

イスラム教は「神」と「私」の直接の関係であって、その間の「法」はイスラム法しかありません。

近代西欧から生まれた法、たとえば「男女平等」とか「奴隷制廃止」といった、私たちにはもはや自明であり普遍的な法は、イスラム教徒にはなんの権威もありません。

むしろ女奴隷はイスラム教にとっては正しい行為なのです。

イスラム国もボコ・ハラムも、犯罪を起こすべくして起こしているのではなく、イスラム教の論理によって動いている、とも考えられるのです。

この本は決して「イスラム教徒は恐ろしい、理解できない人々だ」と書いているのではありません。

むしろ、私にはイスラム教に寄り添った書き方をしているようにすら思えました。

イスラム教の魅力も少しわかりました。

ただ、今後イスラムとどう付き合っていけばいいのか、という答えは書かれていません。

かなり、むずかしい問題です。

かなりむずかしいことがわかったことだけでも、収穫とすべきでしょう。

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