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『本居宣長 文学と思想の巨人』

田中康二 中公新書

本居宣長の入門書として『本居宣長とは誰か』を読んだのですが、もう一冊読みました。

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結果的にはバランスのいい選択でした。

『本居宣長とは誰か』がどちらかというと宣長に批判的なスタンスで書かれていましたが、本書は宣長に寄り添って書かれた入門書です。

どちらかといえばこちらのスタンスの方がオーソドックスなのかも知れません。

あとがきで田中さんはこう言います。

国文学者の宣長像と思想史家の宣長像は異なる様相を呈する。(p234)

おっしゃるとおりで、源氏物語を「ものの哀れ」によって読み解いていく宣長の手際はすばらしいなあ、と思えます。

 男が女に恋をしたとき、そのやむにやまれぬ思いのたけを女に打ち明ける。女もまた男の切なる思いに心動き、密会するようになる。男は女の容姿淡麗に心ときめき、女は男の志にほだされて恋に落ちる。そこには世間の常識や道徳といった規範が入り込む余地がない。そのようなひたむきな恋が源氏物語に書かれていると言うのである。そうして、そのような恋をすることが「物の哀を知る」ことであると言うのである。ここには近代的としか言いようのない恋愛感がある。それは江戸時代のリアルタイムにおいて、儒教や仏教が規定する倫理道徳によって禁止されていたからである。(略)

このように物語は儒教や仏教による戒めのためにあるという考え方は、当時においては前提や常識であって、これを疑う者はいなかった。それゆえ宣長がそれらを真っ向から批判したのは画期的なことであったといえる。(P87-88)

一方、『馭戎概言』(ぎょじゅうがいげん)という本に典型的に現れているような宣長の「偏狭な自国中心主義」で「排外的」に見える部分には辟易してしまいます。

──そもそも、天皇がこの上もなく尊くていらっしゃることは申し上げるのも今さらであるけれど、まず日本はすべての国を隅々まで御照らしになっている、天照大御神の御国であって、天地の間に匹敵する国はないが、そのままその天照大御神の御子孫に次々にお伝えになられて、皇位継承と申して、皇国を御統治なさり、万代の御子息までも揺るぎのない御位でいらっしゃったので、あの訳もなくむやみやたらと驕り高ぶっている漢国の王などが、到底及び申し上げることもない。(現代語訳 p129)

古事記などの研究から理論的に無敵である宣長には、だれも勝てないのです。

上田秋成が常識的な反論をしても、理論として完結してしまっている宣長にどうやっても勝ち目はありません。

こんな人相手にしたくないなあ、とつくづく思います。

しかし考えてみると徳川幕府は儒教を奉じており、その儒教の源流である中国批判をするということは当時としては反体制的であったのです。

実際、『玉勝間』という本の出版にあたっては、儒教の祖を悪人呼ばわりする過激な内容のために出版元が内容の差し替えをしたほどです。

宣長に狂信的なナショナリストというレッテルを貼ることも違うように思うのです。

宣長は自らが発明した方法を徹底的に使うことで、当時の文学や思想の常識をひっくり返していきました。

そのやり口を学ぶとともに、宣長の作り上げた磁場にいる現代を見つめ直すこと。

宣長を学ぶ課題はまだまだあると思いました。

いつか宣長の原典を読んでみたいと思います。

難しそうですが面白そう。

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