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『性的唯幻論序説』を読む

『性的唯幻論序説 改訂版 「やられる」セックスはもういらない』岸田秀

岸田秀の本はけっこう読んでいるはずで、『ものぐさ精神分析』はおもしろかったと記憶している。
おそらく本書の改訂前、文春新書から出たものも読んだような気がするのだが、今回読んでみると再読という感じがしないから、ひょっとしたら読んでいないのかもしれない。

岸田秀のスタンスは、人間は本能が壊れた動物だから、その代わりに幻想をつくらないと生きていけない、ということに尽きる。
本書では人間の性欲がやはり幻想に過ぎなくて、さらにその幻想が近代の男女間の差別に通じていることを問題視し、その解決をどのようにすればいいのか、ということを書いている。
いろんな話題に行ったり、同じことを何度も繰り返したりしているから、きちんとした研究書を読むつもりだと少しいらっと来るかもしれないが、そもそも著者の論は仮説に過ぎないわけだし、その根拠となる話も仮説や推測でしかないのだから、壮大なフィクションを読んでいると思えばおもしろい。

だいたいセックスなんて誰がどうやっているのか、すべてを知ることはできないのだから国民全員がすべてを隠し撮りでもされていないかぎり仮説に留まるのに決まっているのだ。
問題はその仮説が読者にどれだけ説得力を持ち、男女に(特に女性に)あまり合理的ではないように思える現状の性を取り巻く環境を変えていく力を持っているのか、と言うことであって、この本は確かに冗長なところはあるけれど、その語り口の面白さと切り口によって、私はけっこう納得したりした。

著者はいくつかのことを示唆している。
本能が壊れてしまっており、男は本質的に不能なのであるが、それではこまるので女の性欲は置いといて、とりあえず男の性欲を回復するように文化は発展してきた。

それにより女は男の性欲を刺激し男を性的に興奮させる魅力的な性的対象の役割を担うことになった、とか。
とりわけ私が印象深かったのは、資本主義の成長により男女の性欲がある種決定的に制限され、ゆがんでしまったのだというぶぶんだ。

 要するに、西欧において最初に資本主義が発達したのは、キリスト教(むしろ、ユダヤ=キリスト教)の性文化が、本質的では内面で多少の変更を加えれば、資本主義的人間の育成に向いていたからであった。資本主義的人間とは、男に関して言えば、女のために、恋愛とセックスのために、自発的に一種の奴隷労働を悔いない人間である。

マックス・ウエーバーが資本主義とプロテスタンティズムとの関連を主張したが、それだけではなく、性についてもキリスト教と資本主義は手を組んでいた、というのである。
性的な貧困状態に男を追い込むことによりまじめに働かせるシステムが資本主義だった、という。

 資本主義社会のセックスは、結婚関係においても売買春においても、惨めで見苦しく寒々しい貧困なセックスであった。

で、この現代においてどのようなセックスをわれわれはすればいいのか。

わたしによれば、人間が性交するのは、本能的行為でもなく、能力の発揮でもなく、愛の表現でもなく、趣味である。(趣味というのは性交を性交として行う、ということ。引用者注)

 要するに、セックスをやりまくることが誇るべき男らしさの証明であるというようなかつての馬鹿げた観念に囚われてむりにがんばってセックスをするのではなく、お互いの恥ずかしい面がさらけ出される親密な関係の中で自我が傷つくのが怖くてセックスから逃げるのでもなく、セックスをしたいときに、自分と何らかの好意的関係にあってセックスの趣味も共通し、同じようにセックスをしたい相手とするのがいちばんいいと思うが、どうであろうか。

私としては著者の考えに賛同するけれど、われわれの共同幻想がそのように変化するのかどうか。
たぶんこの50年、というより10年くらいで性を取り巻く状況はかつてないほど大きく変化しているけれど、個人的な実感としては本質的なことは明治時代とあまり変わっていないんじゃないかな、と言う気がしてもいる。
資本主義の枠組みが何らかのかたちで決定的に変化すれば、性的な関係も大きく変化するのではないか、とこの本を読んできて思ってはみたけれど。
いずれにせよ、自分の性欲は本能であり、自明のものであるとどこかで思っていた私にとっては、それが生物学的にも歴史的にも外部から規定されたものに過ぎないのかもしれない、と疑わしく思えてくる、おもしろい本でした。

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