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『カント『純粋理性批判』入門』を読み、理解したつもりだったのに、分からなくなってしまいました。

『カント『純粋理性批判』入門』 黒崎政男

数年前に読んだ、というか途中で放り出してしまった本に再度チャレンジしてみた。

とても読みやすい本なので、放り出してしまったのは当時はきっと気分が乗らなかったのだろう。

『純粋理性批判』という本もたぶんこれから死ぬまでに読めるのかどうか分からないけれども、この本を読むと何となく勇気が湧いてくるようだ。

ピンポイントで解説しているので全体像はわからないが、エッセンスらしきもの、原本を読むに当たっての心構えみたいなものはキャッチすることができたように思う。

このあいだ、友だちと色について話をした。

例えば信号の赤、青、黄色。

私はその色が分かるし、相手もその色は分かる。

しかし私にとっての赤と、相手にとっての赤はまったく同じように見えているのだろうか。

それは絶対に確認することは出来ないよね、というどうでもいい話。

そんな話が導入部にある。

 リアルだと考えていた世界。世界が緑だから、世界は緑に見える。このような実在観は、通常、哲学の世界では、「素朴実在論」と呼ばれている。しかし、見る側の条件によって世界のあり方そのものが変化するのだとしたら、世界は、本当に、私たちに先立ってリアルに存在しているのだろうか。(p24)

かと言って、世界が存在するのは心の中だけである、というような観念論に傾いたとしても、それはまったくリアルさに欠ける。

実在論と観念論をどのように統合し解決するか。
この問いに対して、私が理解したことはこうだ。

 つまり、誤解をおそれず、カントの基本的な立場をラフに述べれば次のようになる。
1.主観が世界を成立させる。
2.その世界は物自体の世界ではなくて、現象の世界である。
3.現象の認識は客観的だが、物自体についての認識は主観的なものにすぎない。(p30)

 

 この一見パラドキシカルに見える発想が、どのようにして可能となるのかについて、『純粋理性批判』の全思考が費やされたのである。(p30)

 

「物自体」とは、ものそのもののことであり、それが何かによって認識されようとしたり、近くされようとすることとは〈無関係〉に、つまり、他とは関係なく、それ自身で存在しているような状態のものである。

「現象」とは、私たちの近くや感性的直感の対象となるもの、であって、それは〈物自体〉とは、画然と区別されるが、しかし、それでも、客観の内容を表しているもの、とひとまずはまとめることができる。(P52)

 

 常識では、正しい認識とは、事物の姿を、主観を交えずありのままに受け取ること、と思われている。しかし、カントが『純粋理性批判』で明らかにしたのは、〈あるがままの事物〉をとらえられると考えるのはおろかな妄想に過ぎず、認識は徹頭徹尾、主観的な条件で成立しており、そのことによってのみ、認識は客観性を有する、という主張なのである。
つまり、素朴にありのままを認識しようとすれば、それは主観的なものとなり、逆に、世界は主観による構成物だと考えることで、初めて客観的認識が成立する、というパラドキシカルな主張こそ、『純粋理性批判』の根源的なテーマなのである、と。(p105)

読んでいるときは理解していたつもりだったが、書き写しているとどうもおぼつかなくなってきたなあ。

とりあえずメモとしておきます。

すみません。

オチなし。

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