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『サブカルの想像力は資本主義を超えるか』

大澤真幸 角川書店

本書は早稲田大学で2016年〜17年に行われた講義を元に書かれた本です。
リアルタイムでみた作品をネタにしているので、わくわくしつつ読めました。
また、作品をみていなくても、あらすじがていねいにフォローされているので問題なく読めます。

本書で扱われるのは、『シン・ゴジラ』(庵野秀明総監督)、『ウルトラマン』(円谷一監督ほか)、『砂の器』(松本清張)、『飢餓海峡』(水上勉)、『人間の証明』(森村誠一)、『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(増田俊也)、『薔薇の名前』(ウンベルト・エーコ)、『DEATH NOTE』(大場つぐみ原作、小畑健作画)、『OUT』(桐野夏生)、『おそ松さん』(藤田洋一監督)、『バートルビー』(メルヴィル)、『君の名は。』(新海誠監督)、『この世界の片隅に』(片渕須直監督)、『逃げるは恥だが役に立つ』(海野つなみ)、『われらが背きし者』(スザンナ・ホワイト監督)などなど。

こういった作品を大学の講義でなぜ扱うのか?

 僕がなぜ皆さんに、サブカルチャーを題材にして話をしているのか。その狙いは、想像力の訓練です。(中略)
例えば『君の名は。』は、作り話で、荒唐無稽といえば、全く荒唐無稽の話。『デスノート』は、さらにもっと荒唐無稽です。よりリアリズムに則っている、『シン・ゴジラ』でも、もちろん現実にある話ではない。
ただのつくり話ですが、しかしそうしたつくり話は、われわれの現実の社会のあるべき姿、あってほしい姿、あるいはこういうことになりうるだろうという予想、そうした現実に対する想像力が込められている。
この想像力について、僕はもう少し難しく、「構想力」という言葉を使うことを好みます。英語ではどちらもイマジネーションです。
そうした現実の社会に対する構想力を鍛えるためには、普通の現実よりも、むしろフィクションを題材にしたほうがいい。

アメリカ大統領選挙でトランプが勝ったということは、われわれの構想力が現実に負けたということなのだ、だからもっと構想力を膨らませていかなくてはいけない、と大澤さんはいいます。

第一部は『シン・ゴジラ』、『ウルトラマン』、『砂の器』、そして木村政彦と、日本の敗戦についての話。
第二部では「浅間山荘事件」、「オウム真理教事件」について『デスノート』、『OUT』を参照しながら善と悪の問題を論じます。
第三部では『おそ松さん』、『バートルビー』から、マックス・ウェーバー経由で資本主義からの脱出の可能性について示します。
結びの第四部は『君の名は。』『この世界の片隅で』『逃げ恥』と「ゲマインシャフト」「ゲゼルシャフト」「国民国家」といった現代の私たちが直面する生きにくさ、そしてフィクションの関係についてを論じています。

どの論考も、原作と同じくらい面白い。
例えば、『砂の器』、『飢餓海峡』、『人間の証明』という三つの小説は、いずれも次の4点で同じ構造を持っているといいます。
①犯人は全員社会的に成功していた
②犯人は自分のアイデンティティについて過去に隠蔽したある秘密を持っていた
③犯人は終戦直後の混乱期に決定的なごまかしをやっていた
④そのごまかしに関わる善意の訪問者がやってくる

なぜ同じ構造の作品が別々に書かれ、いずれの作品もヒットしたのでしょうか?

 日本人の無意識に「敗戦直後に自分は、何かをごまかしてしまった。私が私であることの 証しになる部分に、何か根本的なごまかしが入ってしまった」という感覚がある。この三つの作品は、その感覚を、寓話のように表現していた。
そのごまかしとはなにか。ずっと話してきた通りです。アメリカに対して、憎悪すべき敵として対処し、バカな戦争をやってしまった。その結果、自分たちは戦争に負けてしまった。このことを否認して、「私たちは初めから自由と民主主義が来るのを待っていたんだ」と書き換えた。そこにごまかしがあったのです。

フィクションには時代の無意識が投影されています。
それを意識化していく作業というのは、推理小説を読んでいるようで実にスリリングです。
大澤さんのように鮮やかに無意識を読み解くのは難しいことです。
それでも、エンタメ作品を単純に楽しむだけではなく、「なぜ多くの人のこころに届くのか?」という問題意識を持っていたいですね。

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