MENU

『死してなお踊れ 一遍上人伝』

栗原康 河出書房新社

アナキストの栗原さんが書いた、一遍上人についての伝記です。

一遍は鎌倉時代の僧侶。

「踊り念仏」でおなじみです。

栗原さんのいつもの超高速の文体で、一遍を現代人として描きます。

一遍は日本中を旅し続けました。

念仏さえ唱えればよし!という教えを広めるためです。

最初は念仏を大勢で合唱するスタイルだったのですが、そこに踊りが入っていきます。

栗原さんによれば、こんな感じ。

一遍たちは未知の領域にふみこんでいった。人間の限界の、限界の、さらに限界を超えて、ありえないようなうごきをみせはじめた。まるで痙攣でもおこしているかのように、ブルブルブルっと猛烈ないきおいで体をゆさぶり,フオオオッ、フオオオオオオッっと奇声をはっしながら、あらあらしくとびはねた。ひとにも物にもバシバシとぶつかり、スッころんでもすぐまた起きあがる。足が擦りきれ、血液がふきだしてもかまいやしない。まるで獣だ、野蛮人だ。ここまでくると身分の上下も、キレイもキタナイも、男も女も関係ない。およそ、これが人間だとおもいこんできた身体の感覚が、かんぜんになくなるまで、自分を燃やして、燃やして、燃やしつくす。いま死ぬぞ、いま死ぬぞ、いま死ぬぞ。体が念仏にかわっていく。どんどん、どんどんかるくなる。まだまだいける、まだうごける。いくらはねても、つかれやしない。その力、無尽蔵だ。ああ、これが仏の力を生きるということか。生きて、生きて、生きて。生きて、生きて、往きまくれ。おまえのいのちは、生きるためにながれている。なんでもできる、なんにでもなれる、なにもやっても死ぬ気がしない。あばよ、人間、なんまいだ。気分はエクスタシー!!

動画で踊り念仏を探してみました。

いまいち。

栗原さんの文章から想像するのは、トランスのようなもの。

当時としてはこれくらいのインパクトがあるものだったのだと思います。

初期の踊り念仏はきっと統一感もなく、ぐっちゃぐちゃだったのでしょうが、次第に様式化されていったのでしょう。

一遍は、自らの教えが組織化されることはいやだったようです。

一遍が憑依した栗原さんは、こういいます。

みんなで念仏をうたうということは、けっしてひとつになるということじゃない。ひとりひとりが、まったく別の自分にうまれかわっていく。それが「ひとりはおなじひとりなりけり」ということだ。うたえ、念仏。なむあみだぶつ。一丸となって、バラバラに生きろ。

しかし結局「時衆」→「時宗」として組織化されていってしまいます。

宗教は教団化されることで、個人よりも組織が、自由よりも様式が重要視されるようになってしまいます。

これは、宗教に限らずあらゆる事象に共通することです。

一遍自身、踊り念仏の教えを広めていくことで知名度が高くなり、自らの権威が高まっていく事態に直面します。

しかし、なんとかそれに抗い「ひとり」に留まろうとした一遍の生き方はすてきです。

現代的な踊り念仏でも始めてみて、布教しようかな。

だけど、私はダンスはうまく踊れない。

[amazonjs asin=”4309247911″ locale=”JP” title=”死してなお踊れ: 一遍上人伝”]

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

目次