栗原康 岩波新書
いつもの栗原さんです。
すいすいすいっと読めつつも、いろいろ考えてしまう。
今回ようやく気づいたのは、アナキズムとは何かの思想ではなくて「運動」のことなのではないかということ。
運動といっても、春の交通安全運動とかの運動ではなくて、ランニングするとか体操するとかの意味です。
エマ・ゴールドマンという女性アナキストが本書で紹介されています。
1869年リトアニア生まれ。
戦い続けて、すごくかっこいい人なのです。
彼女がニューヨークの工場のストライキに支援に訪れたときです。
当時のストライキというのは、軍隊が鎮圧に現れ銃撃戦も起こるような緊張感にあふれたものでした。
当然、工場内も緊迫。
そんな中でエマは「ダンス・パーティー」を開くことにします。
それに対してアナキストの少年が抗議します。
ダンスパーティーなんて遊んでる場合か、おれたちは革命の大義のために戦っているんだ。
それに対してエマはこういいます。
「私は絶えず大義のことをいわれ続けて、もう飽き飽きしている。美しい理想やアナキズム、そして因習や偏見からの解放と自由を表すはずの大義が、生と喜びの否定を要求するとは思っていない。私たちの大義は修道女になることを期待していないし、その運動が修道院に入るようなものであるべきではない」。
油断していると、「組織」というものはすぐ立ち上がります。
それがたとえ抑圧に対する組織だったとしても、その大義のために組織は個人を別のやり方で抑圧し個人は何かをがまんしなければならなくなります。
組織が発生した瞬間に、上下関係が生じてくるのです。
何かに対する戦いのためには「軍隊」の形式はきわめて合理的だからです。
アナキズムは、組織での抑圧に常に抗する運動ではないでしょうか。
たぶん合理的なものは勝ち続ける。
一方、アナキズムは負け続ける。
しかし、負け続けることができることにこそアナキズムの価値があります。
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