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『芭蕉入門』

井本農一(講談社学術文庫)

 

先日読んだ『小林一茶』(宗左近 集英社新書)の中で、著者は芭蕉と蕪村のことをこの上なく尊敬している、と言い切っている。
恥ずかしいことに芭蕉も蕪村もいくつかの句を除いては、ほとんどのことを知らない。
ということで、今回はAmazonなどで評価の高いこの本を読んでみた。
『小林一茶』と較べるとコンパクトで、掲載されている句も少ない。
しかし芭蕉の伝記的な記述のなかで彼の挑戦しようとしたことや悩みなどがわかりやすく書かれていて、あれだけ有名な俳人のことを私は何も知らなかったのだということを思い知らされた。
俳諧のために伊賀から江戸に出てきて、俳諧宗匠をやめ俳諧隠者になる。反俗の人となったことで、かえって人気が出てしまう。

 しかし、脱社会、脱体制を志した作家の反俗的文学が、その脱社会性・反俗性によって世間に高く評価され、名誉や地位を与えられることには、一種の自己矛盾があるのではないでしょうか。

そういう苦悩から奥の細道の旅に出たという。
芭蕉という人は生まれついて悟っているような人だと勝手に思っていたので、こういう現代的な悩みを持っていたために旅に出たとは知らなかった。
その旅から生まれたのが「不易流行」論だった。
 古今の俳諧のすぐれた作品にはある共通の本質的なものがあります。人が古人の優れた俳諧にも感心し、また現在の優れた作品にも心打たれるのは、そこに何らかの意味において共通した、ある本質的なものを想定しているからでしょう。それが「不易」です。
しかし、個々の作品が優れた作品であるためには、常に独創的でなければならないのは当然です。時代とともに動き、新しみを求めなければなりません。それが「流行」の意味でしょう。

不易流行という言葉は知っていたが、それは受験レベルの暗記に過ぎなかった。

ラジカルな考え方である。

芭蕉自体が今や古典だから、「鑑賞」するように奉っているけれども、芭蕉自身はできあいの形式に甘えるのではなく、新しいかたちを常に模索しなければならない、と言っている。
では、どんな新しさを求めなければいけないのか、という門人たちの問いに芭蕉はどう答えたか。

 芭蕉の答は「軽み」でした。「軽み」の反対は「重み」です。芭蕉は重くない句を作ることを具体的には主張しています。
重い句というのは、第一には観念的な句です。理屈の句です。第二には、風流ぶった句です。わざとらしい風流の句です。第三には故事や古典に寄りかかった句です。そういう句を排斥して芭蕉は俳諧の特色を発揮した軽みを強調します。

常識のある人からは馬鹿みたいに見えるとは思うが、私は芭蕉さんのことを完全に誤解していた、と謝らざるを得なかった。

理屈っぽくて、風流で、古典とかがわからないと理解できないのが俳句だと思っていたから。
特に、風流じゃだめだ、というのにはまいった。

俳句っていうのはそもそも風流なもんだろう、と今まで雰囲気で勝手に勝手に思っていたから。
これは現代においての文学にも十分に当てはまる理論だよなあ、とひどく遅れた発見をした気分だった。

風流を、例えばロマンチックとか、故事や古典をノスタルジーと言い換えればどうか。
知らないともったいないことが江戸時代にはずいぶんある。
恥ずかしいです。何も知らなかったのが。

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