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『短歌の友人』

穂村弘

 

高橋源一郎『大人にはわからない日本文学史』で面白そうに紹介されていたので手に取りました。

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これは面白い。
恥ずかしながら私は短歌にはあまり触れたことがありません。
サラダ記念日』がせいぜいなくらい。
丸谷才一『新々百人一首』を読もうとしては挫折するばかりです。
だからこの本で紹介される短歌がいちいち新鮮でおもしろいものでした。

さて、この本の中で穂村弘は、短歌のモードが変遷してきていることを整理してくれています。
①「私」の獲得

   具体的には、まず日本の近代という時代性に対して、短歌という詩形は「『私』の獲得」というかたちでダイナミックに対応したと思う。与謝野晶子や斎藤茂吉など、この短歌的な「私」を最も強靱なスタイルで作品化できた歌人が、この時代の秀歌を生み出すことになった。

   やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君
  与謝野晶子
   あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり
 斎藤茂吉

②言葉のモノ化

   次に戦後という時代性に対しては、様々なとらえ方があり得るが、私見では、短歌は「言葉のモノ化」というかたちで最も鋭くこれに「対応」したと思う。(中略)虚構の「私」を含む私性の拡大を可能としたのは、言葉もまた一種のモノでありそれによって示される「私」は自由に改変可能だというフェティッシュな感覚に他ならない。(中略)
日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも

  塚本邦雄

③「口語」の導入

   定型への影響力という点で、「『私』の獲得」や「言葉のモノ化」に唯一匹敵しつつある近年のモードは「『口語』の導入」であろう。(中略)
「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ

   俵  万智

①~③は「上塗り的な変化を示して」きました。そして現在の短歌はどうなっているのでしょうか。

   その後、二〇〇〇年代に入って、戦後の夢に根ざした言葉の耐用期限がいよいよ本格的に切れつつあるのを感じる。インターネットに代表されるメディアの変化とも関連して、修辞的な資産の放棄に近い印象の「棒立ちの歌」が量産される一方で、未来への期待と過去への郷愁をともに封じられた世代が「今」への違和感を煮詰めたところから立ち上げた作品が目につくようになった。(中略)
3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって

中澤 系

牛乳のパックの口を開けたもう死んでもいいというくらいに完璧に

    同

リモコンが見あたらなくて本体のボタンを押しに寝返りを打つ

  斉藤斎藤

自動改札を眺める駅員のくちびるうごくみんなよいこ

 

(p141)

高橋源一郎『大人にはわからない日本文学史』、竹田青嗣『人間の未来―ヘーゲル哲学と現代資本主義』、そして穂村弘と、どの本も時代が決定的に変化している、と告げます。
中澤系や斉藤斎藤といった、はじめて知った新しい歌人たちの歌は、中原昌也の小説のようないさぎよさがあり、こんな世界があるのだ、と目を見開かれるようでした。
同時に、これはきっと批判されるよなあ、とも思いましたけれども。
短歌はやっぱり奥が深いです。
現代の短歌から遡及していってみたいと思いました。

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