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『文章読本さん江』を読む

斎藤美奈子
斎藤美奈子の本は『妊娠小説』『冠婚葬祭入門』と読んできた。

斎藤美奈子の視点や、切り口や、裏付けの史料の膨大さもすばらしいが、何より文体が大好きだ。

などと、この『文章読本さん江』を読むと文体のことをうかつには言えなくなってしまうが。

谷崎潤一郎の『文章読本』から、作家やら評論家やら元新聞記者やらがよってたかって「文章読本」を書いてきた。

どうして「文章読本」は書かれなくてはいけなかったのか、ということを近代の作文教育の歴史から掘り下げていった、すごい本。
とにかく全部がずうっとおもしろいんだけれど、結論としてはこんな感じか。

 原点にもどって考えてみよう。文章読本とは、はて、何なのか。
私はこういうことではないかと思う。文章とは、いってみれば服なのだ。「文は人なり」なんていうのは役立たずで、ほんとは「文は服なり」なのである。

 

 文は服である、と考えると、なぜ彼らがかくも「正しい文章」や「美しい文章」の研究に血眼になってきたか、そこはかとなく得心がいくのである。衣装が身体の包み紙なら、文章は思想の包み紙である。着飾る対象が「思想」だから上等そうな気がするだけで、要は一張羅でドレスアップした自分(の思想)を人に見せて誉められたいってことでしょう?女は化粧と洋服にしか関心がないと軽蔑する人がいるけれど、ハハハ、男だっておんなじなのさ。近代の女性が「身体の包み紙」に血道をあげてきたのだとすれば、近代の男性は「思想の包み紙」に血道をあげてきたのだ。彼らがどれほど「見てくれのよさ」にこだわってきた(こだわっている)か、その証明が、並みいる文章読本の山ではなかっただろうか。

もちろん私は素人なんだけれど、批判されている側にいるような気がして、ひじょうに居心地が悪い。

要はたかが文章でかっこつけすぎじゃん、ということなんですが。まったくもってそのとおり。

ついでに居心地の悪くなった部分。読書感想文について書かれたところ。

 二つの感想文には同じ特徴がある。第一に、読書体験と「自分の生活体験」を重ね合わせていること。第二に、読書体験によって自分は変わった(変わろうとしている)と述べていること。

とうぜん斎藤は批判的な文脈で言っているのだが、これってこのブログのことじゃないの?と思ったりもしたのである。

こどもの頃から読書感想文をいやいや書かされてきたことが自分の読書の感想のかたちを作ってしまっていたらしい。

まいったね。

今回この本を読んだことにより、私はこのブログのやり方も変えようと思いました、というのは「読書体験によって自分は変わった(変わろうとしている)と述べていること」だろうなあ。
とにかくこの本はなかなか避けて通りづらい本です。

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