「サイコパス」ということばを頻繁に聞くようになりました。
なんとなく連想するのは「羊たちの沈黙」のレクター博士のような殺人鬼ですが、具体的にどういう人のことを指すのか。
よくわからないので、この本を読んでみました。
科学的知見とともに哲学的な考察もあり、読み応えのある本でした。
著者の原田さんは、犯罪心理学等の研究をなさっています。
以前は法務省東京拘置所で受刑者に面接や心理検査等を実施して、どの刑務作業に就かせるかなど精査する仕事をされていました。
そのときにサイコパスと呼べる受刑者と何度も出会っています。
原田さんは、サイコパスについてこう言っています。
サイコパスとは、良心を欠いて生まれた人々である。
良心を欠いているということは、やはりほとんどが凶悪犯罪者なのでしょうか。
そうではありません。
研究によれば、サイコパスは一般人口の1〜3%存在するとされているそうです。
つまり、日本の場合は百万人を超える数のサイコパスが存在する。
百万人すべてが犯罪者であるわけがないので、私たちの周りにも一定の「サイコパス」が存在するのです。
サイコパスは外見、内面すべて凶悪なのか。
むしろ、サイコパスは決して強面ではないのだそうです。
つまり、相手を惹きつけるだけの魅力と、卓抜したコミュニケーション能力が、サイコパスの特徴である。
しかし、どれだけ優しい言葉をかけていても、そこに感情はない。それは偽の優しさであり、演技である。共感しているように見えても、共感している振りをしているだけである。
サイコパスが人生の成功者になり得るケースもある、といいます。
例えばAppleの創業者であるスティーヴ・ジョブズ。
彼がサイコパスだったかどうかは今となってははっきり分からないが、その言動や行動からサイコパスに近いと考えられるのだそうです。
つまり「サイコパス」と言っても、サイコパスを構成する要素である犯罪性、共感性の欠如、無責任性といったものの濃淡により、マイルドから極悪までさまざまなタイプのサイコパスがいるということらしい。
それにしても、サイコパスはなぜ存在するのか。
暴力が日常的であった時代、サイコパスは現代ほど目立つ特異な存在ではなかったにちがいない。むしろ、その勇敢さや冷酷さなどを武器に、優秀な指導者や英雄になっていた可能性も大きい。
そう考えると、サイコパスという存在は、かつては時代の要請に沿った適応的な存在だったとも言える。しかも、人類の歴史においては、暴力が支配的だった時代のほうが圧倒的に長い。
むしろ、サイコパスが必要とされた時代があったのではないか。
しかし、時代は変わってしまったのであり、現代においてはサイコパスは「異端」なのだ、と原田さんは言うのでした。
さて、隣のサイコパスとどのように生きていくべきか。
身近なサイコパスは一つの個性としてとらえ、害を回避しながらうまく付き合うべきだ、というのですが、これがいちばん難しそう。
この本を読んでいくと、自分が「サイコパス」であるような気になってきます。
いや、間違いなくサイコパスだ。
マイルドサイコパスであれば自省することで変わることができる、と原田さんがおっしゃっているのが救いです。
反省しつつ生きていきます。
と、反省したふりをしておいて、実は何も変わっていないのが極悪サイコパスの特徴の一つなのですが。
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