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『超国家主義 煩悶する青年とナショナリズム』

中島岳志 筑摩書房

 

日本の戦前のファシズムについては、個人よりも国家の論理が優先した程度の教科書レベルにも達しない知識しかありません。

それは「戦前」の出来事だったから「戦後」のわれわれには関係ない、とどこかで高をくくっています。

中島さんは戦前の「煩悶する青年」たちのエピソードを描いていくことで、彼らが現代のわれわれと同じであったことを示します。

そして彼らがいかなる道筋で超国家主義に近づいていくことになったのかを描きます。

それはもちろんさまざまな道筋ですが、多くのエピソードを積み重ねることで共通点も浮かび上がってきます。

 

エピソードが描かれるのは次の人物。

北村透谷、藤村操、田中智学、宮沢賢治、石原莞爾、近角常観(僧侶)、三井甲之(『原理日本』)、倉田百三、大川周明、朝日平吾(安田善次郎刺殺)、中岡良一(原敬暗殺)、難波大助(虎ノ門事件=後の昭和天皇となる摂政狙撃未遂)、佐郷屋留雄(濱口雄幸暗殺未遂)、小沼正(血盟団事件、井上準之助暗殺)、菱沼五郎(血盟団、団琢磨暗殺)、藤井斉(海軍軍人)、橘孝三郎(五・一五事件)、北一輝、安藤輝三(二・二六事件)、磯辺浅一(二・二六事件)、江川桜堂(死のう団)、頭山満。

()は私が名前すら知らなかった人たちです。

 

登場する人たちはいずれも真剣に自分や不平等な社会に向き合っていました。

その結果自ら死を選び(透谷、藤村操)、テロで社会を変えようとし(朝日平吾など)、天皇による正しい国家を作り上げようとしたりしたのでした。

しかし、彼らの行動は自壊し、または権力によって潰され、結果的に「誰も抗うことができないグロテスクな権力」だけが残されたのでした。

いずれも理想とかけ離れた現実を打破しようとしたのでした。

 

中島さんは、カントの「統制的理念」と「構成的理念」のという考え方で超国家主義を説明します。

「統制的理念」は実現不可能な高い理想みたいなもの。

「構成的理念」は実現性を前提としたもので、例えば政党のマニフェストなど。

 人は時に両者の区分を見失う。統制的理念の実現を目指し、現実の急進的な変格を実行する。究極の理想社会を具体化しようとして、暴力に訴える。しかし、人が不完全である以上、統制的理念は実現されない。

だからといって統制的理念に意味がないのではない。私たちは、統制的理念を掲げることによって、初めて構成的理念を紡ぐことができる。到達し得ない究極の理念を持つことによって、そこへ一歩でも近づこうとする漸進性を獲得することができる。

重要なのは、統制的理念と構成的理念の位相の違いを認識することである。この両者の区別がなされず、統制的理念が構成化されたとき、壮大な暴力的悲劇が起こる。理念を阻害する人間への敵意が顕在化し、ラディカルな熱狂が社会を支配する。

戦前の超国家主義の問題は、「超国家」の実現を追求したことにある。煩悶や不安に耐えきれなくなった人間が政治に解決を求めた結果、自我を溶解するスピリチュアルな国家論が登場し、超国家主義へと展開した。

この轍を、私たちは凝視しなければならない。

 

「新世紀エヴァンゲリオン劇場版Air/まごころを、君に」二十年前に見たのが、この本の構想のきっかけとなったそうです。

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不安や疎外に苦悩する人間が、一つの生命体に回帰し救済に導かれる「人類補完計画」が戦前の超国家主義と繋がっている、と感じたといいます。

孤独や不平等はいつの世でも存在し続けます。

そこから正義感は生まれる。

しかし正義感を全員に押しつけてはいけない。

ましてやそこに宗教、あるいは宗教の名を借りたスピリチュアルなものが入り込んできたならば特に気を付けなくてはいけないですね。

 

本書に掲載されている写真は頭山ゆう紀さんが撮影されています。

頭山さんの祖父の祖父は頭山満の兄弟だそうです。

文春オンライン
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