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『新しい小説のために』

『新しい小説のために』佐々木敦

 

佐々木さんは、日本に「新しい小説」が現れていることに気づきました。
それらの小説のどこが新しいのか、なぜ新しくある必要があるのか、ということを追究していきます。
「新しい小説」の書き手は岡田利規磯崎憲一郎柴崎友香山下澄人、そして保坂和志といった作家たち。
 彼らの小説の何が新しいのか。

実は私は保坂さんを除けば、柴崎さんの『わたしがいなかった街で』以外読んでいないというていたらくです。
すみません。
佐々木さんは、たとえば岡田さんの小説において「そこかしこで一人称の限界が大胆不敵に踏み越えられているということ、つまりここに『新しい一人称』が立ち現れていることこそが、新しいのだ」と言います。 

山下さんの小説を孫引きします。

少し前、わたしは電車にいた。私の目はそこに見える全部を見ていた。今も見ていた。窓の向こうに見える給水塔から突き出た避雷針が動いていた。ヘリコプターが見えた。ヘリコプターの操縦席から地区会館の屋根は見えたけれど、その下にいるわたしの姿は見えなかった。(『緑のさる』)

 電車にいる「わたし」の視点はいつの間にかヘリコプターの操縦席にいるのです。
「常識的」なナレーターとはいえません。
 しかしこれは技術や方法の問題ではなく、「もっとはるかに重大な、いわば「世界」との対峙の問題なのである」と佐々木さんは言うのです。

 この本では「新しい小説」自体について言及している部分は意外と少なくて、なぜそんな視点を持つ小説が今生まれてきているのかを確認するパートに多くが費やされています。
 そしてそれがおもしろい。
 第一部の「「新しい小説」のために」では柄谷行人日本近代文学の起源』を中心に、第二部の「新・私小説論」では小林秀雄私小説論』を中心に論考が進みます。
 特に第二部において、「私」が小説のなかでどう存在してきたのかを検討していく部分はスリリング。
私小説のなかにいる「私」って「私」とどういう関係なのか・・・
私小説をめぐって作家たちはどう対峙してきたのか。

「世界」と「私」の関係性は常にアップデートされていて、その結果、従来の「私」ではない「私」が生まれてくる。
 その「私」をどうつかまえていくか。
 作家たちも批評家たちも戦っているのです。
「批評」ってすばらしいなあ、と思えます。

 蓮實先生に喧嘩を売っている?跋文もすばらしいです。

 

新しい小説のために

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