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『走ることについて語るときに僕の語ること』を読んで走りたくなったけど、無理。

『走ることについて語るときに僕の語ること』村上春樹


村上春樹が自分が走ることについて書いた本だというので、村上朝日堂などのエッセイの流れに属するものだと思って軽い気持ちで読んでみたのだが、意外とそうではなくて、ちょっとした小説の手応えのあるものだった。

村上が2005年の11月のニューヨークシティマラソンに向けてする準備の話を軸に、いままで走ることがどういう意義を持ってきたのか、例えば小説との関連性は、と言ったことをかなり明確に書いている。

 僕はこれまでに旅行記やエッセイ集はいくつか出しているが、このようにひとつのテーマを軸にして、自分自身について正面から語ったという経験があまりないので、それだけ念を入れて文章を整えなくてはならなかった。

僕はこの本を「メモワール」のようなものだと考えている。個人史というほど大層なものでもないが、エッセイというタイトルでくくるには無理がある。前書きにも書いたことを繰り返すようなかたちにもなるが、僕としては「走る」という行為を媒介にして、自分がこの四半世紀ばかりを小説家として、また一人の「どこにでもいる人間」としてどのようにして生きてきたか、自分なりに整理してみたかった。(p236「後書き」)

神宮球場でヤクルト-広島戦を見ているときに、村上春樹は小説を書こうと突然思った、というよく知られたエピソードもとても具体的に書かれている。

 小説を書こうと思い立った日時はピンポイントで特定できる。1978年4月1日の午後一時半前後だ。その日、神宮球場の外野席でひとりでビールを飲みながら野球を観戦していた。(中略)安田は1回の広島打線を簡単に零点に抑えた。そしてその回の裏、先頭バッターのデイブ・ヒルトン(アメリカから来たばかりの新顔の若い外野手だ)がレフト線にヒットを打った。バットが速球をジャストミートする鋭い音が球場に響き渡った。ヒルトンは素早く一塁ベースを回り、易々と二塁へと到達した。僕が「そうだ、小説を書いてみよう」と思い立ったのはその瞬間のことだ。晴れ渡った空と、緑色をとり戻したばかりの新しい芝生の感触と、バットの快音をまだ覚えている。そのとき空から何かが静かに舞い降りてきて、僕はそれをたしかに受け取ったのだ。(p45)

ヒルトンは内野手じゃなかったかな。

まあそれはともかく、それまでジャズ・クラブを経営していた村上はこの日から『風の歌を聴け』を書き出す。

ジャズ・クラブの経営についても具体的な話が出てきて、それはまるで『国境の南、太陽の西』の主人公を思わせる記述で、どきどきした。

村上春樹は自らのいくつかの事実をエッセイなどで明らかにしてきたけれど、ここまではっきり書いている文章というのはたぶん初めてで、いつもどおり読者へのサービスは忘れていないのだけれど、それにしてもエッセイとは違う重みを感じる。

老年にさしかかりつつある村上が自分の過去を真剣に、きちんと整理しようとしているのがありありと分かるのだ。

しかしそれでありながら単に走ることについての雑感を書くのではなく、ニューヨークシティマラソンへ向かって着々といろんな準備を重ねていくことを記述しながら、過去について思いを寄せるという形式が単なるエッセイとは呼べないものにしている。

それにしても、長距離を走るための準備、そして長距離を走ることによる肉体及び精神の組成の変化、といったことをアスリート視点でここまできっちり書いた本はないのではないか。

私はこれを読んでもまるで長距離を走るという気は起きないが、走ることによって生活全般が変わってしまうだろう、ということは想像できる。

最近たまに朝1時間ほど早足で散歩をするようになったけれど、それだけでもずいぶん身体の成り立ちが変わった気がするもの。


小説を書くことと走ることの連関については何度も言及している。

 僕自身について語るなら、僕は小説を書くことについての多くを、道路を毎朝走ることから学んできた。自然に、フィジカルに、そして実務的に。どの程度、どこまで自分を厳しく追い込んでいけばいいのか?どれくらいの休養が正当であって、どこからが休みすぎになるのか?どこまでが妥当な一貫性であって、どこからが偏狭さになるのか?どれくらい外部の風景を意識しなくてはならず、どれくらい内部に深く集中すればいいのか?どれくらい自分の能力を確信し、どれくらい自分を疑えばいいのか?もし僕が小説家となったとき、思い立って長距離を走り始めなかったとしたら、僕の書いている作品は、今あるものとは少なからず違ったものになっていたのではないかという気がする。具体的にどんな風に違っていたか?そこまではわからない。でも何かが大きく異なっていたはずだ。(P114)

正直言うと、この本を読んでまるで長距離を走る気が起きない、というのは嘘だ。

確かにこの本には長距離を走ることのつらさやある種の無意味さなどが書かれているけれど、それにもかかわらずこんな私でも走りたくさせてしまう。

村上春樹の本を読んでパスタを食べたくなったり、ボブ・ディランを聴きたくなったりするより、もっと根源的な誘惑だ。

うーん。

だけどねー。

 

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