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『百年の孤独』といってももちろん焼酎ではない

『百年の孤独』G・ガルシア=マルケス 鼓直訳
たぶん、高校生のときに図書館で借りて読んだように記憶しているが、今回じっくりじっくり舐めるように読み返して、高校生では相当適当に読み飛ばしたんだなあ、と思うほどに濃密な小説だった。

ここのところ私自身の体調が思わしくなかったこともあり、なかなか一気に読み進められなかったけれども、かえってゆっくり読むべき本なのかもしれない。
なんと言っても、そのジャーナリスティックな文体だ。

もちろん私はスペイン語を読めないので、鼓直の訳による日本語しか読めないのだが、「マコンド」という都市で生じた事件を淡々と報道するように記述し、それを積み重ねる文章はその積み重ねがある限度を超えたときに突然読者を揺さぶるような効果を発揮する。
とてつもない美貌を持ちながら、それに本人が全く気づいていないために周囲の男達を不幸にしてしまう小町娘レメディオスが突然昇天してしまうというシーン。

 仕事にかかるかかからないかにアマランタが、小町娘のレメディオスの顔が透きとおって見えるほど異様に青白いことに気づいて、
「どこか具合でも悪いの?」と尋ねた。
すると、シーツの向こう把持を持った小町娘のレメディオスは、相手を哀れむような微笑を浮かべて答えた。
「いいえ、その反対よ。こんなに気分がいいのは初めて」
彼女がそう言ったとたんに、フェルナンダは、光をはらんだ弱々しい風がその手からシーツを奪って、いっぱいにひろげるのを見た。自分のペチコートのレース飾りが妖しく震えるのを感じたアマランタが、よろけまいとして賢明にシーツにしがみついた瞬間である。小町娘のレメディオスの身体がふわりと宙に浮いた。ほとんど視力を失っていたが、ウルスラひとりが落ち着いていて、この防ぎようのない風の本性を見きわめ、シーツを光の手にゆだねた。めまぐるしくはばたくシーツに包まれながら、別れの手を振っている小町娘のレメディオスの姿が見えた。彼女がシーツに抱かれて舞い上がり、黄金虫やダリヤの花のただよう風を見捨て、午後の四時も終わろうとする風のなかを抜けて、最も高く飛ぶことのできる記憶の鳥でさえおっていけないはるかな高みへ、永遠に姿を消した。(p252)

なんと、美しいシーンだろうか。

『エレンディア』同様、この小説では今のわれわれの世界では起こりえないようなことがいくつも起きる。

しかしそれはこの文体のせいなのか、確実に起こりうるものとして自然に納得される。

そしてこのようなエピソードが大きなものから小さなものまでちりばめられ続け、そのひとつひとつをじっくり味わうことによって百年間のマコンドの消長を実体のあるものとして私は受け止めていくのだった。

似たような名前の人物が似たような行動を取り続ける。

反復されながら変奏されるエピソードの積み重ねを読みながら、人間なんて結局時代が変わろうとも同じようなものなのだ、という失望というよりむしろ安心できる感情に至る。
ところで、ほんとに人名が分かりづらい。

子供に自分と同じ名前を付けたりして、それが繰り返されて、誰が誰だか分からなくなってしまうのだ。

池澤夏樹の『世界文学を読みほどく』に人名表と、この小説の各章ごとのエピソードをわかりやすくまとめた表があったので、ひじょうに参考になった。
具合の悪いあいだ、この本に戻っていくのが楽しみだった。またいつか読みたい。

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