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『エレンディラ』のことは忘れない

『エレンディラ』ガルシア=マルケス 鼓直・木村榮一訳
久しぶりに小説を読んでいて、こころがひっくり返されるような気がした。

短篇集で、以下の七編からなる。
1『大きな翼のある、ひどく年取った男』
2『失われた時の海』
3『この世でいちばん美しい水死人』
4『愛の彼方の変わることなき死』
5『幽霊船の最後の航海』
6『奇跡の行商人、善人のブラカマン』
7『無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語』

ガルシア=マルケスといえば、いわゆるグロテスクリアリズム、というやつで、この小説でも日常の生活に天使が出てきたり、人が宙に浮いたりということがふつうに出てくる。

日本の小説でそういうことを書こうと思うとする。

小説なんだから何を書いたって構わないわけだ。

ほら話なのだから。

だが、やはりたぶん力む。

最初から異空間として設定したうえで、そこに奇怪なものを持ち込むかたちであればできそうだ。

しかし、ほんとうにふつうの生活をベースにしたなかで、奇跡が起きた、的な書き方でなくて、非日常であるのにそれがあっても不思議はない、というふうに読む人に納得させる書き方はたぶん難しい。

神父は気を落とし、すっかり当惑してしまった。銅の小皿をもって村じゅう歩き回り、教会建設の寄進を募ったがわずかな金額しか集まらなかった。あまり嘆願しすぎたために、徐々に身体が透き通ってゆき、骨がカラカラ音を立てるようになった。日曜日には、身体が地上から40センチばかり浮き上がったが、誰ひとり気づかなかった。(『失われた時の海』p47)

グロテスクリアリズムはもちろんだが、文章の高密度なところがすばらしい。

文章ひとつの情報量がとてつもなく多いのだ。

そして、加藤典洋の言うところの「文間の深さ」が深い。

文章と次の文章の連なりがゆるやかでなく、ある種の断絶を含んでいる、というのか。

短編小説であるから同じ散文であっても、長編と比べると無駄な言葉は排される、ということはあるだろうが、マテリアルとしての言葉が心に食い込んでくる感じがある。

情念みたいなものが文章から慎重に排されていて、そのくせ深く刺さる。
薄汚れた天使が出てくる『大きな翼のある、ひどく年取った男』。

まるで夢の話であるような(グロテスクリアリズムというのはきっと夢の論理であるのに違いない)『失われた時の海』がよかった。

そして表題作で少し長い7。

エレンディアは祖母と二人暮らしの女の子。祖母にこき使われている。

ろうそくが風で倒れ、住んでいた御殿が全焼、祖母はエレンディアから損害分を償わせる。

エレンディアは祖母の監視下のもと男に身体を売り、祖母はその金を巻き上げる。

砂漠の中その商売を続けていく。

ウリセスという男の子がエレンディアと恋に落ち、彼女を救おうとするのだが、失敗してしまう。

エレンディアは祖母を自分で殺すことはできない、というので、ウリセスが失敗しつつ最終的に祖母を刺し殺す。

疲れ切ったウリセスをエレンディアは全く無視し放置して、祖母の金の延べ棒のチョッキをつかんで駆けだしていく。

彼女は風に逆らいながら、鹿よりも速く駆けていた。この世のもののいかなる声にも彼女を引きとめる力はなかった。彼女は後ろを振り向かずに、熱気の立ちのぼる塩湖や滑石の火口、眠っているような水上の集落などを駆け抜けていった。やがて自然の知恵に満ちあふれた海は尽きて、砂漠が始まった。それでも金の延べ棒のチョッキを抱いた彼女は、荒れ狂う風や永遠に変わらない落日の彼方を目指して走りつづけた。その後の消息は杳として分からない。彼女の不運の証しとなるものも何一つ残っていない。(p191)

ここだけ引用しても分かりづらいとは思います。

ここまで来る苦難の道のりがあって、その上で、この最後の部分でカタルシスを味わうのだ。

このあと、エレンディアが幸せになったのかどうかは知らないけど、なんかエレンディアすごくかっこいいなあ、と思ってしまう。

ちょうど昨日第2巻を読んだ『セクシーボイスアンドロボ』の二湖と姿がダブってしまった。

凛々しく走りつづける女の子はやっぱりかっこいいし、凛々しく走りつづけられるのはたぶん女の子なのだろうな。

(*マジックリアリズムの誤りだと思われる 2018.6.28)

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