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『地下室の手記』から解放感を味わう

『地下室の手記』ドストエフスキー 安岡治子訳
光文社の古典新訳文庫で読んでみた。

たぶんずっと昔に新潮文庫で読んだのだろうが、いつものように内容をほとんど覚えておらず、はじめてのように読めた。
第1部「地下室」は哲学書のような体裁。

一般的にこの小説を評す際によく言われる「自意識過剰な男」である「俺」(40歳)が過去を振り返り、持論を展開する。

例えばこんな感じ。

しかし、百回でも繰り返してあんた方に言いたいのだが、人間が自分にとって有害な愚かしい、どこから見ても愚の骨頂とさえ言える ことを、わざと意識的に望みうるケースがひとつ、そう、たったひとつだけあるのだ。それはまさに、己のために愚の骨頂さえも望む権利、己のために賢明なることを望むという義務から解放される権利を持つことなのだ。(p58)

この持論とは、私が読んだところ、たぶん以前読んだ高橋源一郎『文学じゃないかもしれない症候群』の『「有害」コミック問題を考える』についてのこのようなところとよく似ていると思った。

ポルノグラフィーの最大の傑作はサド侯爵によって書かれたいくつかの著作だが、かれの作品には、おれたちが「文学」という言葉からイメージする肯定的なもの一切と相いれないものが存在している。
たとえば、それは「人格を毀損する自由」である。いいかえるなら「人をモノとして辱め、絶望させることによってのみ、回復される 自由」であり、もちろん、こんな自由は誰によっても擁護されることはない。だが、やっかいなことに、サドが想像の中に構築したこの「自由」は、どんな肯定的な「自由」よりも大きな解放感を人に与えることができるのである。(朝日文芸文庫 p125)

倫理を深く考えたら、たぶん、こういう答えになるのではなかろうか。

新聞やテレビやわれわれが普段使っている「倫理」とは別の、もっと根源的な生きていくための倫理。

ドストエフスキーはやっぱりなかなかひねくれている。
ちなみに高橋源一郎のこの評論はかなりいけています。源ちゃんの評論はだいたい好きだけど、そのなかでも屈指。

第2部「ぼた雪に寄せて」はドストエフスキーのうまさが発揮された小説らしい小説。

「俺」の24歳の時の出来事を書いている。
学生時代の嫌いな知人が遠くに転勤になるので壮行会をやろう、と、やはりあまり好んでつき合っているわけでもない別の知人が言っているのを聞いて、関わらなければいいものを(と自分でもわかっていながら)、わざわざ参加する。

始まるのは5時ということを聞いていたので、時間よりも前に食事の場所に行ったら、知らない間に6時に変更されていて、1時間も待ちぼうけを食らわされたことから始まる(ほとんどいじめ)。

食事は4人でおこなわれたのだが、語り手の「俺」は全く相手にされず、じゃあ帰ればいいものを帰らないで、暴言を吐いたりして更にますますいやな思いをする。

読んでいてもなんだか陰鬱になってくるが、合間に挿入されるのがたとえばこんなほとんどお笑いのネタ。

〈今こそ、こいつら全員に酒瓶を投げつけてやれ〉と俺は考え、酒瓶を手に取ると・・・・・・自分のコップをいっぱいに満たした。(p155)

結局「俺」を置き去りにして3人は娼館へ向かい、それならそれで帰ればいいものを、馬車の馭者を殴り急がせてまで追いかける。

しかし娼館で彼らを見つけることはできなかった。
疲れて入った娼館の部屋で「リーザ」という娼婦に出会う。

暗い部屋の中で「俺」はリーザに励ますようなことを心ならずも言ってしまい、自分の住所を書いた紙を手渡す。
このリーザとの出会いは「俺」にとっては重大なことである。

奇妙なことに、昨日のあらゆる思い出の中で、リーザに関する思い出だけが、なにか特別なものであり、他のものとは全く別に俺を苦しめていた。(p218)

しばらくしてやってきたリーザに対して、リーザとの思い出に苦しめられていた「俺」はほとんどヒステリー状態になり、リーザに対して激しく侮辱めいたことを言い、その勢いで自分の愚劣さを告白するように泣きながら話し続けるのだが、

ところがここで、不意に、奇妙な事態が起きた。(中略)俺に侮辱され、ぺしゃんこに押しつぶされていたリーザが、実は俺が想像したよりもずっと多くのことをちゃんと理解していたのである。彼女は、これらすべてのことから、女性がもし心から愛しているなら、常に何にもまして真っ先に悟ること──つまり、俺自身が不幸なのだ、ということを読み取っていたのである。(p247)

 

すると彼女は、不意に俺に駆け寄り、俺の首っ玉を両手で抱きしめると、泣き出した俺も堪えきれずに、いまだかつて経験したこともないほど激しく、わっと号泣した・・・・・・。(p248)

このへんはかなり盛り上がり、小説としては意外な展開でまさにクライマックス。

読み物としての小説ならばここで終わってもいいくらいのもんだが、自意識過剰な男はこの状況で自分を失ったことからすぐ抜けだしてしまう。

自失した自分を冷ややかに見始める。

このあとリーザを抱くのだが、そのあとにリーザに5ルーブルを握らせる。

つまり心が通い合った、的な状況だったのに、いきなり娼婦として扱うわけだ。

そんなことしなくてもいいのに、わざわざ。すごいなあ。
そして「俺」は最後まで自分を客観的に見続けようとし、この手記について評論する。

小説には、ヒーローが必要だが、ここにはわざとアンチヒーローのあらゆる特性が集められている。それに、肝腎なのは、この一切が、この上もなく不愉快な印象を与えるという点だ。(p259)

自意識が強すぎて行動できなくなる、ということは私にはよくあった。

そして、自意識が強すぎるために自分のしようとしていることと全く正反対のことをしてしまう、ということもよくあった。

つまりはこの小説もある程度自分のことが書かれている、という点でおもしろいとは言える。

ただ、ドストエフスキーの小説は、そんな人物を書けば通常つまらなくなりそう(仮に、私が自分のことをそのまま書けばきっとつまらない。あたりまえだが)なのに、これをとびきり面白く読ませてしまうのがすごい。

そして「アンチヒーロー」が「この上もなく不愉快な印象を与えている」のは事実なのにもかかわらず、善行が書き連ねられた文章よりもずっと大きな解放感を味わうことができるのが、すばらしい。

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