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『利己的な遺伝子』を利己的に読む

『利己的な遺伝子』リチャード・ドーキンス 10年以上も前に友人から借りて読んだが、かなり急いで読み飛ばした。

面白かったという記憶はあったがほとんど覚えていない。

増補新装版が出ていたので手に入れてじっくり読むことにした。 で、じっくり立ち向かうと、この本を読むことは非常に難渋することがわかった。

文章が難しい。

翻訳のせいかと思ったけど、そういうわけではなさそうで、著者が誤解されることをおそれているために非常に回りくどい言い方をしているからなのだろう。

おそらく最初に読んだとき、その回りくどい表現の部分はほとんどすっ飛ばして読んだので記憶にないのに違いない。 利己的な遺伝子、という考え方はいまや生物学について何も知らない私などにも浸透しているように思われる。

つまりわれわれの身体は単に遺伝子の乗り物であって、遺伝子が自分を残すために乗り物である私たちは求愛やらなんやらの活動をしている、というように漠然とその考え方を理解していた。

まあ、だいたいはそのとおりなのだが、特にその考え方を特徴づけるためにはもう一つ別の考え方があったことを押さえておかないといけない。

それは利他的な行動をどう説明するかということで対立する。 多くの地上営巣性の鳥は狐のような捕食者が近づいてきたときに、いわゆる「偽傷」ディスプレイをおこなう。

親鳥は片方の翼が折れているかのようなしぐさで巣から離れるのである。捕食者は捕らえやすそうな獲物に気付いて、おびき寄せられ、雛のいる巣から離れる。(p9)

利他的な行動とはこのように自らを犠牲もしくは危険にさらして他の個体を助けようとするものだ。 群淘汰説という説はこういう行動を「生き物は「種の利益のために」、「集団の利益のために」物事をするように進化する」と考える説である。

これは確かに人間から見て非常にけなげで胸打たれてわかりやすい物の見方だが、「利己的な遺伝子」で考えるとそうはならない。

遺伝子レベルで考えると親鳥と雛は血縁関係にあるわけだから近い。

で、遺伝子としては自らを残すためには先の長い若い雛を残すように行動すべきである。

そのように行動するように遺伝子は親鳥をコントロールしており、結果的に「利他的」な行動をとる、と説明する。 ドーキンスが説明の中で常に慎重に排除するよう心掛けているのが、遺伝子が意志を持っているかのように考える、ということだ。

これは読む前の利己的な遺伝子についての考え方では私は排除していなかった考え方だった。

つまり遺伝子が意志を持って、われわれ「乗り物」をコントロールし、支配下に置いている、という考え方で、「結局俺たちなんて遺伝子の乗り物に過ぎないぜ」みたいなことを飲み会の席で口にしたような気もする(どんな飲み会なのか)。

だが、先の例で言っても、偽傷ディスプレイをおこなう遺伝子が自然淘汰の結果として生き残ったものであって、意識を持つこびとみたいな遺伝子がロボットのような個体を操作しているという考え方は転倒しているのだ。

読んでいても何度もその考えに落ち込み、その都度ドーキンスから注意を受けた。

「ミーム」という考え方を説明する部分がもっとも生き生き書かれており、それは直接生物学から反駁されない部分なのであまり気にせず書けたのだろう。

ミームとは、人間の文化的な営み、言語や芸術やその他諸々の事象が、「模倣」という行為により広がっていき脈々と続いていく、ということを遺伝子のアナロジーにより説明するものでこれはちょっとおもしろい。 ゲーム理論がこの本の中では再三再四出てくる。

というよりもゲーム理論によって遺伝子の優位性を説明している本といってもいい。

有名な「囚人のジレンマ」などなどだが、こちらについては別に勉強するともっと面白そうである。 結局、利己的な遺伝子というのはあくまでもひとつの見方なのであって、あまりずっぽりはまりこむのもどうかとは思うが、視点を完全に変えるというおもしろさを味あわせてくれる。

この視点から例えば小説などを批評するとけっこうおもしろいものになるのではないか、と思われた。

あと、本が重いので腕が疲れました。

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