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『現代小説のレッスン』を読んだ

『現代小説のレッスン』石川忠司 この本はすでに出た当初(一年半くらい前?)に読んでいたはずだった。

だけどあまり記憶がない。

だいたい読み方が適当なんだけど、石川忠司自体をほとんど知らなかったので、大したことのないやつと勝手に決めつけてぱらぱらと村上春樹のところだけ拾い読みしたんだと思う。

この間読んだ『極太!!批評家列伝』がとてつもなく面白かったので、再読してみることにした。 ところで、梅田望夫のブログでアランの『定義集』について書いている部分が、私の読書のしかたに自信を持たせてくれるものだった。

僕はこれまでにたくさんの本を読んできたが、内容を記憶するという習慣がなく、そのときどきの人生における喫緊の問題に何か指針を得たいという一心で、そのときどきの自分が欲している信号を求めてさまようような読書をしてきた。精読して知を溜め込むということにはいっさい興味がなく、生きるために飲む水を求めるような読書と言えば近いだろうか。アラン「定義集」も過去に何度か読んだが、その内容を記憶していないため、読み返すたびにかえって新鮮だ。学者先生たちの本の読み方と、我々市井の人間の本の読み方は全く違っていてよいものだ、といつも思う。記憶には残っていなくとも、生きるうえで強く影響を受けることができれば、それで十分だ。 (2006/2/28)

たぶん、この間読んだときはそれほどのどが渇いていなかったんだろう。もしくは水を飲む準備ができていなかった。 で、『現代小説のレッスン』だが、小説についてうすうす思っていたことを言語化してもらっているという実感。

簡単にキーワードだけ記しておく。 ・物語(共同性、話し言葉)から近代小説(孤独、書き言葉)に変わっていったことでストーリーだけでは薄すぎるので、 ・次の三つの新たな言葉の位相がストーリーに付け加える必要が求められた 1.内言、内省 2.思弁的考察(感想) 3 描写 ・ただ、上の三つが余計になってきた。どう扱うかが現代小説。 ・村上龍は「ガイド」の行動が描写になることで描写のうっとうしさを回避している ・保坂和志は小説のかたちで思弁的考察を行っている ・内言のエンターテイメント化について舞城王太郎はうまくいっていないんじゃないの ・村上春樹はメランコリーから殺人を捏造していた ・水村美苗の『本格小説』は神の視点を持つ語り手の煽情性からの感動=資本主義的感動

時間の扱い方、というより時間の共有というものが小説の感動みたいなものを与えるのだろう、と最後の水村美苗の評論でわかった。

一ばん力が入っていると感じた部分だ。

ただ、時間の共有にあたってはたぶんそうとうな仕掛けみたいなものがないとうまくはいかない。

日本語の「ペラさ」を常に自覚しつつ、小説の中でのうっとうしさを避けつつ、豊かな時間を味わう・・・これはかなりむずかしいなあ。

私は適当に、簡単にまとめているけど。

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